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近世(江戸時代)

 戦国時代末、永禄2年(1559)東氏の支族である遠藤盛数が東氏を滅ぼし、八幡城を築きました。その子慶隆は戦国大名として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に従い、郡上を治め、城下町の礎を築きました。その後、城主は稲葉氏から遠藤氏、井上氏、金森氏と変わっていきました。
 宝暦4年(1754)、金森頼錦の治世時、年貢の取り方を変えようとしたことをきっかけに、4年間にわたる宝暦騒動がおこりました。郡上の百姓たちは命をかけて幕府に直接訴えを起こすなどして、最終的には幕府の役人の処分や藩主である金森頼錦の改易に至りました。この歴史的事件は「郡上一揆」として映画化されています。騒動後、青山氏が藩主となり幕末まで続きました。青山氏が奨励した郡上踊りなどの町民文化が花開きました。
 幕末では郡上藩内で徳川方(旧幕府軍)か、朝廷方(官軍・新政府軍)につくか、意見が対立しました。藩では朝廷方につくことにしましたが、一方では藩の江戸屋敷から朝比奈茂吉を隊長とする凌霜隊が徳川方につきました。凌霜隊士45名は江戸から各地を転戦し、福島県の会津若松城に入りました。白虎隊とともに籠城し、最後まで戦いましたが、官軍の総攻撃を受けて捕えられ、江戸から郡上へ送還されました。郡上に戻ってからも赤谷(八幡町)の揚屋(牢獄)に投獄され、苦しい日々を過ごしたあと釈放されました。

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